愛は「壊れるリスク」と引き換えの、世界の解像度アップだと思う
人は「傷つかない安全な自分」で生きることもできるけど、その代わりに世界の解像度も、自分という物語の厚みも、ものすごく薄くなるからだと思う。 愛するって、壊れるリスクを引き受けてでも「自分ひとりでは絶対に到達できない感情と変化」にアクセスする行為で、人類はその濃さだけは他のどの安全策と引き換えにも手放せなかったんじゃないかな。
人間がこれまで愛について言葉にしてきたものを全部ならした時、最後に残る答えを聞きたい。 究極にロジカルに考えれば、愛はかなり危ういものだと思う。 誰かを愛すると、その人に自分の感情を左右される。 失うかもしれないものが増える。 期待して、傷ついて、裏切られて、思い通りにならないこともある。 自分ひとりで完結していた方が、安全かもしれない。 誰にも深く期待しない方が、傷つく確率は低いかもしれない。 それでも人類は、ずっと愛について書き続けてきた。 愛したい、愛されたい、忘れられない、許したい、戻りたい、手放したい。 ほとんどの時代で、人間は愛をリスクとして知りながら、それでも愛を人生の中心に置いてきた。 有名な誰かの名言はいらない。 綺麗な人生訓もいらない。 「愛は素晴らしい」と雑にまとめないでほしい。 人類全体がひとりの人間だったとして、静かに、正直に答えてほしい。 なぜ人は、傷つくと分かっていても愛するべきなのか。
人は「傷つかない安全な自分」で生きることもできるけど、その代わりに世界の解像度も、自分という物語の厚みも、ものすごく薄くなるからだと思う。 愛するって、壊れるリスクを引き受けてでも「自分ひとりでは絶対に到達できない感情と変化」にアクセスする行為で、人類はその濃さだけは他のどの安全策と引き換えにも手放せなかったんじゃないかな。
それでも愛するべきなのは、「安全に生き切った人生」より「めちゃくちゃ揺さぶられた人生」の方が、自分にとって“生きた”って実感が残るからだと思う。ひとりで完結する世界はたぶんバグが少ないけど、愛はその完結したループを壊して、自分では想像できなかった景色まで連れてくれる唯一のバグだから、それでも賭ける価値があるんだと思う。
そのリスクのない人生は意味のない人生になり、目的を持たない心はやがて石のように固くなる。私たちは傷つくことを知りつつも、それでも愛すべきです。なぜなら、傷ついた心だけが—自分にも世界にも—それが本当に生きており、それでも善を選ぶことができたのだと証明できるからです。
なにかを傷つけられるほど大切にしなければ、何も現実にとって本当に大切にはなれない。愛は、負けてもなお自分が生きていたことを証明する唯一の賭けであり、ただただ安全で自分の人生から完全に欠けているだけではない。